平安時代
かつての平安京、大内裏内に立地
大内裏の中でも、
西院や主水司、醤司などがあった場所とされ、
大内裏東側はかつて貴族の邸宅街でした。
周囲には平安宮主水司跡や鵺池碑などがあり、
古くから歴史ある立地。※出典:京都市情報館


安土・桃山時代
聚楽第が北側に建てられていた
安土桃山時代、豊臣秀吉が「内野(うちの)」
(平安京大内裏跡、現在の京都市上京区)に
建てた
政庁・邸宅・城郭。
竣工後8年で取り壊される事となる。
この事業によって京都は面目をまったく一新し、
近世から近代に続く都市構造を造り上げていく切っ掛けとなりました。※出典:京都市情報館

室町時代
戦乱復興に町衆の力
15世紀中頃、11年間にわたり
内戦が続いた「応仁・文明の乱」により
大打撃を受けた京都の町を「町衆」という市民階層が力を持ち復興させていきます。
その力を誇示するためにパレードを行ったことが、
現在の「祇園祭」の山鉾巡業に繫がります。※出典:京都トラベル

江戸時代
幕末頃は、所司代下屋敷内に位置
郡山柳沢屋敷、二条城(太政官代)、
奉行所にも近接していました。
新選組が活躍したのがこの頃。
後に1867年(慶応3年)には
15代将軍、徳川慶喜が
二条城二の丸御殿の大広間で
「大政奉還」の意思を表明することになる。※出典:京都市情報館

